廃墟のノスタルジー
私たち夫婦がデュラルライフ生活を送る中で、新たにスローライフのアイテムに加わったのは廃墟の探索なのです。
廃墟に関しては、当初、心霊スポットなどのイメージもあって、まるで興味もなく、ただの悪趣味と思っていたくらいなのです。
ところが、温泉地の殆どはバブルの終焉によって、廃墟だらけの様相と化しているのです。
こうして、嫌が上でもその光景を毎日のように目にするようになってしまった私たち夫婦は、最初の内は廃墟を気にとめてはいなかったのですが、いつしか、哀愁が漂う廃墟の不思議な魅力に惹きつけられてしまい、廃墟探索が趣味となってしまったというわけです。
都会でも、ど田舎でも見ることが出来ない廃墟の存在、これはハーフビレッジ(半田舎)の観光地だけの現象なのです。
都会の場合は、常に建物が循環されるので、廃墟になる前に取り壊されてしまい、新しい建物が作られるのです。また、ど田舎の場合は、そもそも廃墟となる土台が存在しないのです。
ハーフビレッジ(半田舎)の観光地の場合は、循環する力もないことで放置されて塩漬け状態となるのです。
そうしたことで、デュラルライフ生活を送る私たち夫婦は、ハーフビレッジ(半田舎)を拠点として、過疎の無人駅となった各駅などを探索して廃墟を探し回ったのです。
無人駅の多くは、観光のピークをとっくに終焉してしまった地域ばかりなので、駅前には何もなく、人っ子一人いないゴーストタウンそのものなのです。
過疎の無人駅は、人と出会うことがまるでない自分たちだけの空間となるので、何かSFの世界にタイムスリップした異空間に降り立った不思議な感覚に陥るのです。
少し歩くとポツンポツンと民家が点在し、その先に目をやると、あった、あった廃墟の存在、廃業してから20年の年月は経つであろう鉄筋コンクリート造のホテルの廃墟が現れたのでした。
こうした無人駅の多くには、必ずと言っていいほど、かつての栄華を誇った廃墟が存在するのです。初めて見る景色の光景と廃墟にはたくさんの学びがあるのです。
何故、廃墟に魅せられるのか、それは、かつてを偲ばせる滅びの美学が漂ってくるからです。
私たちのデュラルライフ生活の日常は、市役所などを訪問して、その地の歴史や風俗を学んだり、裏通りを通って、地場のスーパーで買い物したりと市民と触れ合い、その地の生活環境を学ぶのです。
ちょっと図々しく見えますが、物見雄山の見聞だったら常識の範囲のことなのです。
人に迷惑と感じるような常識を逸脱した行為は論外ですが、このレベルは他人の領域に土足で入り込むようなものとは違うのです。
図々しく感じられても芭蕉や東海道五十三次の旅もそんなもの、それが旅であり行動というものです。
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