東京にいながら田舎っぺになるパート3
今日も昨日に続き、東京にいながら田舎っぺとなった私の思春期の話をさせて頂きます。
今や都会とまったく変わらなくなってしまった多摩市ですが、多摩村当時はタヌキが頻繁に登場するほどの田舎だったわけです。
当時で言う半田舎は、せいぜい調布や府中あたりのことなので、この多摩の情景は紛れもなく田舎そのものだったのです。
結局、私のハーフビレッジ(半田舎)への拘りと願望はここからきているのです。
当時の多摩はど田舎の自然の宝庫と言っても、スーパーや飲食店などもあり、そこそこの便利が整っていたことで、不便をまったく感じない地だったからです。
これは私が二拠点生活のデュラルライフを送った伊東市ととてもよくかぶるのです。
伊東は海あり山ありの自然の宝庫ですが、スーパーやコンビニ、飲食店など何でもあり状態の便利な地なのです。
やはり、都会人にはそこそこ便利があるこの程度のソフトな田舎が打ってつけなのです。
まあ、伊東の話はまたの機会にするとして、多摩の話を進めさせて頂きます。
そんなことで、当時の多摩は方言も田舎そのものだったのです。
問題は、人間関係ですが、最初のうちは都会の人間を敬遠していた地元の子供たちでしたが直ぐに打ち解けてしまい、違和感なく同化出来たのでした。
そんな多摩は、人口も10倍に膨れ上がり、タヌキが出没したことなど嘘のような都会へと変貌したのでした。
当時の多摩は田舎と言っても、京王線の快速特急を使えば30分で新宿に乗り入れることが出来たのです。
しかし、周りは見渡す限り小高い山と田んぼだらけの自然の地なので、空気がいいこともあり病気療養の施設や保養所が立ち並んでいたのです。
田舎に引っ越して初めて知った差別の世界
こうして念願叶って都会の雑踏から田舎の多摩に引っ越しが出来た私でしたが、そんな田舎だった多摩には、やはり昔ながらの閉鎖的な風習が色濃く残っている地でもあったのでした。
それは虐げられた部落の集落が存在していたからです。
深川ではあり得なかった差別の世界、多摩の学校ではそれが存在したのです。
私の場合、多摩に越して直ぐに親の離婚によって家庭は崩壊してしまい、この多摩での幸せもほんの束の間のことだったというわけです。
そんなことで、中学を卒業と当時に逃げるように多摩を離れて以来、多摩には一度も近寄ることはなかったのでした。
5年間の多摩での生活の中で、束の間の田舎っぺの体験が出来たのは最初の1年半だけだったのです。
結果的にここも安住の地とはならなかったことで、故郷というほどの思い入れは一切ないのでした。
あれは一体何だったのだろうか、あの不思議な光景は今でも夢に現れるのです。
今日はここまでとさせて頂きます。
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