都会の真ん中に生まれた虚しいサガ、地方人に乗っ取られた深川の街
俺は深川の生まれの江戸っ子だ⁈⁈文句あっか!!パート3
今回も引き続き、自分の出身地を素直に誇ることが出来ない東京生まれ特有の虚しさのパート3の話です。
日本という国は自分で身を守る自己防衛の自己責任国家、そんな日本人の最後の拠り所となるのが郷土愛の精神なのです。
大都会の東京の街は実に不思議な街、東京にいると田舎っぺ同士の郷土の連帯感と郷土愛の精神が芽生えてくるのです。
これは東京にいるからこそ芽生えるもの、田舎に引っ込んでいたら郷土に対する愛着はこれほど沸いてはきません。
それを羨ましく眺めていたのが我々東京生まれの人間なのです。
私はもちろん東京が大好き、でも、それは郷土愛とかではなく、東京の持つサクセスストーリーの魔力やシティライフに対してなのです。
インチキ深川めしの登場
郷土愛が持てない東京人、今日も生まれ故郷の悪口の自虐ネタ三昧を語ってまいります。
結局、虚勢を張ってオレは深川の生まれだと吠えたところで、底が浅すぎて間が持たないのです。
まあそれは、田舎人間の方も一緒でしたけどね。
誇れるものが何も無いつまらない深川という街、それは食に関しても言える事なのです。
よく言う、深川めしとか?
それって深川に住んでいた人間の99%は見たことも食べたこともない代物なので、突然マスコミなどに登場した時は、なんじゃそれは⁈ってな感じでした。
これは、深川ではなく隣の佃島あたりの旧漁師たちのあさり料理とかを勝手に深川の名物に仕立て上げたものなのです。
今や、食に関しては何でもありの東京ですが、当時の東京でおいしいものを食べたという記憶はまったくないと言っていいのです。
私が子供の頃の深川は貧民街プラス材木と倉庫の街だったので運河だらけ、その川の汚染は魚が住むことが出来ないほど最悪だったし、隣接した豊洲地区はゴミで埋め立てた地だったので、大量のハエが発生するという不衛生極まりない環境だったのです。
何故、こんな汚く狭い深川の街にこれだけ大量の人間が住みついたのか、それは戦後焼け野原となった東京で、唯一、戦災を逃れたのが深川地区だったからです。
そう、深川は戦後になって地方の人間に乗っ取られてしまった街なのです。
しかし、日本橋や銀座界隈に都電で10分足らずで行けることが出来る立地なので利便性だけは最高の地でした。
ただそれは子供の私たちには余り関係のない話です。
今でも深川をたまに素通りすることがあるが、思い入れなどはゼロ。
昔は汚いながらも人が多かったので活気だけはあったが、余りに閑散とし過ぎていて改めてつまらない街に生まれたのだなと感じるばかりなのでした。
当時の深川地区の小学校は、どの学校も2000人規模の超マンモス校ばかり、子供の数が多いと言うことは、それなりに活気もあったことは確か、しかしその7,8割は地方から流れて来た人たちの子供なので、夏休みともなると、一斉に田舎への帰省が始まるのです。
帰る田舎があるっていいなと、とても羨ましく思ったものです。
残念だが、これが悲しい本音なのです。
悔しいが田舎っぺに完全完敗です。
「郷土愛」が持てたらとても羨ましい限りです。
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