イスラム教徒との付き合いは甘くない
ヨーロッパで撒き起こった争いの発端の一番の要因は、宗教の価値観の違いだったことは事実のことで、それは私たち日本人も承知のことなのです。
結果は、ヨーロッパの街の至る所でモスクからのコーランが響き渡り、キリスト文化の衰退を招いてしまったわけです。
モスクから流れて来る「神は偉大なり」と唱えるイスラム教の「アザーン」の響きは、イスラム信者にとっては、とても心地いい響きとなるのですが、キリスト文化のヨーロッパ人からしたら異様な響きから恐怖へと変わって行ったのです。
今のところ、日本ではモスクから「アザーン」の響きはないが、このまま行くと時間の問題となってきそうなのです。
ということで、今日は、多くの価値観の違いを生み出してしまうイスラム教徒との共生の難しさと土葬墓地計画の危うさをいつもの雑学タッチで簡単判りやすく説明し、警鐘を鳴らしてまいります。
イスラム教徒は日本の文化、習慣を否定する存在
日本人の多くは、イスラム教徒との友好や多文化共生には反対はしていないことで、イスラム教徒が1日に5回の祈りを捧げるモスクの存在に対しては寛容の眼差しで見ているのです。
しかし彼らの場合、宗教的な禁止事項が多いことで、豚は当然の如く、死肉やアルコールなど、口に出来ない食べ物は非常に多いのです。
その結果、イスラム教徒自身が異文化との共生そのものが成り立たないケースが多くなってしまうので、安易に日本の文化に溶け込むことは難しくなってしまうのです。
イスラム教徒の人間はモラルや時間にルーズなことは今や有名のことで、モラルを守らない時間に遅れたことは自分のせいではなく、都合よく神のせいにしてしまうので厄介なのです。
そうしたことで、仏教徒やキリスト教徒と違って、イスラム教徒に対しては、それなりに気遣いをしながら接してきたわけです。
だが、モスクやハラールまでは容認できても、イスラム教徒の土葬の墓地という死後の世界まで面倒を見ることは絶対に遠慮願いたいと考えるのです。
ワルのイスラム教徒は約束を一切守らない
日本に入国してくるイスラム教徒の殆どは、戒律の緩いスンニ派が多いことで過激な宗教心を持った人物は少ないのですが、コーランへの信奉は篤いのです。
しかしながら、不良外国人による蛮行は、クルド人だけの問題ではないのです。
富山県の射水市で問題となった、イスラム教徒のパキスタン人との軋轢などは、それこそ傍若無人のやりたい放題の狼藉だったのです。
住宅街に突如として現れた塀に囲まれたパキスタン人による自動車修理工場、これは千葉県のヤードと全く同じで、日本の法律の甘さと警察や行政のマンパワーのなさを知り尽くした上で入り込んできたといういつものパターンなのです。
深夜までクルマを積み下ろしする騒音が住宅街に響き渡り、クルマを運ぶキャリアカーは農道に違法駐車され周辺道路にはゴミが散乱する始末、それを注意しようなら逆ギレされて恫喝されるという有様だったのです。
そんな彼らは経営が傾いたら、いきなりドロンで、経営していた自動車工場の後始末を一切しないで、母国に帰国してしまい、残されたのは油にまみれとなった荒れ放題と化した日本の土地だったというわけです。
日本のルールよりも自分たちのルール
今、日本に在住するイスラム教徒は、パキスタン人やバングラデシュ人が多く、彼らの母国では、ゴミに対する分別の意識がないことで、ゴミはあたりかまわず投げ捨てるという習慣が染みついてしまっていることで、日本のルールやモラルをまるで理解していないのです。
それだけ、教育やモラルとは無縁の外国人が入国してしまっているのです。
これを以てイスラム教徒に対して疑惑の目を向けてはならないことですが、現実はワルのイスラム教徒の人間が数多く入国してしまっていることは事実のことなのです。
そんな彼らの多くは日本の法律は無視するが、自分たちの主張だけは声高に叫ぶのです。
オールドメディアのテレビがイスラム教徒の苦悩として墓の問題を取り上げていましたが、そこに登場したイスラム教徒は、自分たちが日本で罪を犯してばかりのことは棚に上げて、火葬は罪と同じと発言していたのです。
第一そこまで言うのなら、日本にいること自体が罪となるので、さっさと国に帰ればいいのです。
川口のクルド人がほざいた日本人こそ俺たちに合わせろという仰天発言、これはクルド人だけではなくワルのパキスタン人のイスラム教徒などにも当て嵌まる言いぐさなのです。
これでは多文化共生などは日本人が勝手に思うだけの空論でしかないわけです。
こんな状況で土葬墓地などを承認したら、どんどん要求がエスカレートして行くことでしょう。
こんな連中を優遇するなど愚の骨頂、やはり、イスラム教徒との共生はとても難易を伴うのです。
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