地方は県民ファースト、市民ファーストの政治に目覚めよ
地方は県民ファースト、市民ファーストの政治に目覚めて機械的な無風選挙を打開せよ。
地方選挙はこのままでいいわけがないと何度も唱えてまいりましたが、現状の地方の政治は、利権構造の悪しきワル共の思惑通りという機械的な無風選挙となっているのです。
地方の首長を選ぶのに本命が一人しかいないという無風選挙だなんて、こんなバカな話はないですよね。
その無風候補が誰もが認めるという適任者であれば納得も出来るが、なんでこいつだけなの?というような感じの候補も多いのです。
県民、市民に知らせない中で知事、市長の選挙の擁立候補が決められるというナンセンスな政治スタンスがまかり通る地方の現実。
地方の知事や市長などの首長は独裁者に成り得る存在
地方の知事や市長などの首長の場合、ややもすると独裁的な権限も擁するという強固な立場が構築出来てしまうほどの権力を持つ存在なのです。
それほどの権限を行使出来る立場の存在を機械的な無風選挙で擁立させていいものか。
とにかく、日本国民は、知事や市長などの首長選挙が長らく機械的な無風状態で続いてきたことで、諦めムードが蔓延化してしまっているのです。
しかし、地方選挙の知事選や市長選などの首長選挙は、県民、市民、町民の投票で首長が直接選ばれることで、地方選挙ほど身近なものはないのです。
しかし結果として、機械的な出来レースの無風選挙で首長が選出されたら、県民、市民を第一に考えるどころか、少数の利権や利害が中心となってしまい、県民、市民不在の構造と化してしまうのは明白のことなのです。
まあそうは言っても、現実は政党間の利権絡みで候補が擁立されているので、投票したい候補がいなければ手の施しようもないのです。
結局、県民、市民は、候補者選びの意思表明という始めの段階で排除されているのです。
それにしても、ここまで腐敗した政治構造を打開する手立てなんてあるのでしょうか。
それは国政で盛り上がったように、日本人の為の政治に目覚めて行くことなのです。
この腐敗構造を打開して政治を正して行くには、政治への参加というものが選挙に行くという単純志向のままではダメなのです。
そう、地方の知事や市長という首長の選任は、県民、市民による直接の候補者選びから始まって行くのです。
とは言っても、個人レベルの意見はもはや通らない、組織に対抗するには組織となって挑まなくては無理なのです。
県民ファースト、市民ファーストで一体化する
これを始める為には、県民ファースト、市民ファーストから政治の改革が始まるのです。
日本国民は愛国の精神は持たなくとも、地元愛への思いはことのほか強いのです。
それこそ、県民ファースト、市民ファーストこそは正論であり地方政治の真髄だからです。
但しこれは、都民ファーストのように市民組織が政党化することではないのです。
国政選挙と違って、県民ファースト、市民ファーストで文句を言ってくるのは、共産党くらいのもので、リベラル候補も県民ファースト、市民ファーストを突きつけられたら、多文化共生も声高には叫べなくなるのです。
今迄は、県民、市民が政治の運営すべてを政治家や役所に任せっきりとしてきたことで、県民、市民の政治という、自分たちの政治的スローガンを唱えることがなかったのです。
結果、それをいいことにして、機械的な無風選挙がまかり通ってきたのです。
これでお判りの通り、地方政治こそは、生活に密着した身近なものなので、県民参加、市民参加で作り上げねばならないもの、政治家や地場の企業、役所任せにしてはならないのです。
性善説を改め政治に目覚めよ
それにしても、日本人は何故にここまで政治音痴となってしまったのでしょうか、結局これも性善説の悪しき風潮を引きずるもので、政治の話は面倒なことが多いことで、政治家や役所に任せていれば悪いことはしないだろうという安易な安堵感があるからです。
早い話が、日本人は性善説と平和ボケによって骨抜き状態となってしまったのです。
その骨抜きになった日本人をいつまでも政治に興味を持たせないように体よくマインドコントロールしてきたのが、金権体質と利権構造のまやかしの政治を作り上げてきた自民党というわけです。
そして他の各政党も、政治の話は政治のプロの自分たちに任せろということで、独善の体制を築いて利権構造を作り上げてきたのです。
日本人は戦後80年そのインチキ政治のまやかしに翻弄されてきたのです。
しかし、そのインチキ政治のまやかしが国政以上に昔のまま残っているのが、地方政治の実態なのです。
結局、茨城県知事選や三重県知事選では、まだ機が熟していないことで、SNSなどのソーシャルメディアの威力も限定的だったのです。
しかし、宮城県知事選は、参政党のテコ入れによってヒートアップ状態となっているのです。
だが、宮城の場合は、参政党がどうの以前に日本国民の敵である村井という悪魔を叩き潰さねばならないので、知事が村井以外だったら誰でもいいのです。
何度もしつこく言うが、地方がこのままでいいわけはないのです、この閉塞的な腐敗構造を打開して行く為には、県民、市民が一丸となって、県民ファースト、市民ファーストでまとまることなのです。
東京都も都民ファーストで取り敢えずですが、政治の改革が達成出来たのです。
何と言っても、県民ファースト、市民ファーストだったら、日本、日本人を奈落の底に堕とし込もうと企むTBSやテレビ朝日も差別だとは言えなくなるのです。
国政だけが変わってもダメ、地方が変わらないとダメなのです。
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