自給自足の業を忘れてしまった田舎の年寄りの哀れ
自給自足は、何度も言う通り、一切、外部に生産を求めず自分の生活に必要なものを自ら生産して賄うことなので、原始的な生活のことを言うのですが、この生活を実践してきたのが日本の農村部などの田舎生活の実態なのです。
しかし、今の田舎は都心からの便利の導入によって生活状況は大きく様変わりしてしまい、自給自足の習慣はほぼ消え去ってしまったと言っていいのです。
しかしながら、自給自足を忘れてしまい、年寄りだらけの限界集落となった田舎の姿も哀れそのものとなってしまうというわけです。
ということで、今回は自給自足の倫理観を完全に忘れてしまった田舎の実態を雑学タッチで簡単判りやすく紐解いてまいります。
便利の導入に酔いしれてしまった田舎の人間
今の田舎の年寄りは都市と変わらない生活が当たり前となっていることで、先祖から引き継がれてきた自給自足の業を忘れてしまっているのでした。
そんな田舎の年寄りたちは、今や田畑を耕す体力も無くなり、山に入ることもしなくなっているので、昔は活気があった集落の殆どは暗く荒れた地と成り果てているというわけです。
何と言っても、田舎の多くは金に塗れた森林の伐採と植林の放棄が繰り返されてきたのです。
この無造作に放棄されてきた山々がとうとう怒り出してしまい、集中豪雨の度に土石流が発生する事態に発展し、どの山村の集落も危険と隣り合わせの状況となっているのです。
こうして放置された山村はもはや村と共に死に逝く絶望を辿ることになるのです。
これこそが子供の居つかない山村は、現代の姥捨て山であるという所以なのです。
田舎の集落ではそもそもお金がなくとも自給自足の業の自給力で生き抜いてきたのです。
それが都会から押し寄せた進化の突風によって、いつの間にかお金がなくては生きられない状態となって行ったのです。
この風がもたらした進化の導入こそは、電気、ガス、水道の三種の神器からテレビという情報の伝達とセントラルヒーティングの普及、そして極めつけはクルマ社会というわけです。
田舎の殆どはこうして一気に底上げが図れたことで、飛躍的な生活水準へと向上したことで、もはや田舎の人間は便利の導入から逃れられない状況となっているというわけです。
そう、人間とは一度便利を味わうとそれに染まり過去の生活は忘れてしまうものなのです。
こうして代々築かれてき田舎の倫理である集落の自然や資源を子や孫に引き継いで守り抜くという、自給自足による倫理観は完全に崩壊して行ったのです。
昔の自給自足の倫理観を継承する人間はもはや存在しないのです。
自給自足の習慣が消えて無くなったことで、山村特有のかつての活気も無くなってしまったわけです。
今や、田舎にUターンをした若者たちの多くは、何年も使われなくなっていた荒れた棚田の雑草を切り取り、水を入れて畑を再生して行くことから始めるという作業を行っているのです。
コメント