9千万人のイラン人がイスラム原理主義に洗脳された謎を雑学で紐解く
自由社会を謳歌していたイラン人が何故イスラム原理主義に傾倒したのか

今や世界中を席巻するイランという摩訶不思議な国の話題。
そもそもイランという国は、歴史と文化に支えられたペルシャの名門の大国なのです。
その大国のイランは自由を謳歌していた親米国家であった筈なのに、何故、180度真逆のイスラム原理主義という戒律の厳しい宗教国家になってしまったのかの謎・ミステリー。
ここでは、その真相のさわりの部分を探る為に、いつも通りの雑学タッチとオチャラケを交えてその経緯を雑学の視点で簡単判りやすく紐解いてまいります。
この解説は、あくまで、雑学という軽いノリの視点での見解なので、その点は寛容な目で見て頂くことをご理解願います。
憎き親米パーレビ王朝の根絶
イランの場合、パーレビ王朝の最盛期は西側諸国の文化を導入したことで中東一の自由な国となりイラン国民は自由を謳歌して来たのです。
しかし、その自由な国は「資源の呪い」によって、敢え無く崩壊して行くことになるのです。
そこに急進的なシーア派の思想を掲げて現れたのが、フランスに亡命をしていたイスラム原理主義の最高指導者のホメイニなのです。
イランという自由主義の国を乗っ取ったホメイニ一派のイスラム原理主義の指導者たちが真っ先にやったことは、イスラムを冒涜してイランを退廃させた親米のパーレビ王朝を徹底的に破壊して根絶することなのです。
そうしたことで、パーレビ王朝を支えていた文化、教育のすべての柱を壊して行き、厳しい戒律のシーア派教育の洗脳を徹底強制して行ったのです。
こうして、パーレビ王朝が実施して来た歴史教育を学ぶことは禁じられ、イランの文化遺産も破壊されてしまい、当時の書物はすべて焼き払われたのです。
ここで、とくに苛烈を極めたのはパーレビ王朝を支えていた貴族社会やエリートたちです。
逃げ遅れた彼らは、逮捕監禁され、土地や財産はすべて没収されるという徹底した弾圧が繰り返されたのです。
そこから革命政府は、シーア派の指導者を各地に送り込んで、住民の移動を繰り返して行き、イスラム原理主義に忠誠を尽くす洗脳を徹底させたのでした。
自由社会から原始社会へとガラリと転換
厳格な戒律のシーア派によるイスラム原理主義への洗脳の措置とは、自由社会で築いた自分らしさというアイデンティティを失うことを意味するので熾烈を極めるのです。
それはそうですよね、自由主義社会にいた人間がいきなりイスラム原理主義という原始社会に繰り込まれてしまうわけで、考え方や生活の習慣も180度変わってしまったということなのです。
これらの引き締めは弾圧ともいえる苛烈な中での実行であった為に、国を捨て亡命などでイランを脱出する人が後を絶たなかったのでした。
こうした展開は、別な勢力が占領した場合、抵抗運動が起きないよう体制を盤石化させる為の定番のセオリーのことなのですが、イスラム原理主義シーア派の場合は、思想改造を行うという徹底したものなのです。
こうして、イスラム原理主義による恐怖の支配が始まってしまったのでした。
女性の人権は徹底的に破壊された
イスラム原理主義の場合は、女性に対してはとくに過酷を極めたのです。
そうしたことで、彼らが真っ先に実行に移したのは、イスラム原理主義側から見た「女性の解放」と称する女性に対する風紀の厳格さなのです。
パーレビ王朝が実施したヒジャブ着用を禁止する措置や女性の参政権の取得など、この自由主義での女性のフリーダムな風紀の乱れに対して、イスラム原理主義者たちは怒りに震えていたのです。
これこそは、イスラムへの許しがたい冒涜であるとされ、徹底した女性への引き締めが断行されてしまい、女性たちは酷い扱いを受けることになるのでした。
また、子供への教育も徹底されたことで、学校の自由主義での男女平等は完全撤廃されたのです。
これらは、アフガニスタンを支配したイスラム原理主義のタリバンと似たところがあるのですが、イランの場合は、完全な自由主義社会に身を置いていたこともあり、その転換の軋轢はアフガニスタンの比ではないのです。
こうなってしまうと、弱い立場の女性や国民は抵抗する術も持ち合わせてはいないことで、イスラム原理主義者たちの意のままになるしかないのです。
9千万人がイスラム原理主義に洗脳された謎とは
それにしても、いきなり9千万人規模の大国家で、自由主義だった国がイスラム原理主義に思想転換など出来るのかという疑問が湧いてくるわけです。
実は、ホメイニ一派のイスラム原理主義が、ここから政権が強固になるきっかけの旋風が吹いてきたのです。
そう、それこそは突発的に発生したイランイラク戦争という戦いだったのです。
戦争が始まれば、嫌が上でも国民は国家に身を置くので団結力が生まれるのです。
イラン・イラク戦争によって、経済は消耗したが、シーア派体制は盤石なものとなり、イスラム原理主義精神は完全浸透してしまい、国民はシーア派主義の下でとことん鍛えられたのです。
なにより、初期の劣勢をくい止め、シーア派体制の下で国を守らねばならぬという団結心を植え付けることが出来たことは大きいのです。
これは結果的にホメイニの思惑通りとなったわけです。
このイラン・イラク戦争は、1980年にイラクが一方的にイランへの侵攻を行ったことがきっかけで、1988年までの8年にわたって続いた戦争なのです。
当時のフセインの一番の狙いは、大国イランに勝利して、中東での名手となり、覇権を拡大させることがフセインの野望なので、イラン革命によって、軍部が弱体化し、混乱をきたした今が絶好のチャンスと攻め込んだわけです。
不意を突かれたイランは、革命後の混乱と軍部の体制もままならない中で、一方的な劣勢状態となり、一時は敗北寸前まで追い込まれたのです。
しかし、劣勢の中、軍部とイラン革命防衛隊の必死の抵抗で、かろうじて敗北を免れ、膠着状態に持ち込んだのでした。
戦争という偶然の産物が団結を呼び起こす
この戦争の開戦によって、国民はまとまり、軍の士気も向上していったのです。
そしてそれは革命防衛隊というイスラム原理主義の防衛組織が強大化して行くきっかけとなったのです。
この戦争の勃発が無ければイスラム原理主義政府は短期間でまとまることは出来なかったと言われているのです。
この戦争は、ダラダラと8年間も長く続くことになったのです。
これこそは、イスラム原理主義政府にとって、怪我の功名、突発的にイラクからの進撃を受けたことが幸いしてしまったのです。
当然、国家としての消耗は顕著となるのですが、消耗の持久戦は耐乏精神を植え付ける効果もあってイスラム原理主義の思想を植え付けるのには理想的なのでした。
怒りと耐乏は宗教革命の理念とマッチする
結局、イランイラク戦争のダラダラの消耗戦は、そっくりそのまま、イスラム原理主義の思想への洗脳となって行ったところが大きのです。
まあ、戦争状態となったら「欲しがりません勝つまでは」の世界となるので、自然と国民の団結力は高まって行くものなのです。
それにしても、日米開戦でも、4年なので、その倍の8年となったら相当な耐乏ぶりの筈です。
こうして、ホメイニ一派率いるイスラム原理主義国家は、強力な国家体制を築き上げることに成功したのです。
これでお判りの通り、ホメイニは、偶然の産物によって、怒りを旨くコントロール出来たことが大きかったのです。
それはイランイラク戦争の怒り、そしてアメリカ大使館占拠というアメリカに対しての怒りなのです。
怒りと耐乏は、我慢の精神を植え付けることが出来るので宗教革命の扇動により効果を発揮するのです。
イスラム原理主義国家のイランとは常に戦い続ける国家だということです。
忍者ライターの久保誠が「デュラルライフ」「田舎暮らし」「シニアライフ」「スローライフ」「海外ロングステイ」の情報と「雑学のすすめ」を主題として、ソフトタッチに日々の出来事、経済、国際情勢、政治、芸能、歴史のウンチクなどを語ってまいります。




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