性善説で税金を無下に扱う地方の現実
それでは今日と明日は、地方創生の国のスタンスである性善説によるばら撒きの実態に触れてまいります。
性善説で地方を救うという偽善。
それでは今日は性善説で公金をばら撒き丸投げして好き勝手にやらせてしまうとどうなるかという視点で地方創生の弱点を簡単判りやすく解説してまいります。
地方の過疎化と一極集中をくい止めるため、10年前から鳴り物入りではじまった地方創生事業は莫大な国からの税金の投入によって全国の市町村で展開されているのです。
だがしかし、国のやることは毎度ワンパターン、莫大な金を投資しても、あとは地方任せの丸投げ状態なので、結果はどこもかしこも華を咲かせるまでには至ってはいないのです。
嫌々ながら人を受け入れている状態
この事業で露呈したのは国のいい加減さと地方行政の甘えの構造なのです。
そうした中で、ここにきて田舎招致のすったもんだの実態が次々とあからさまとなってしまったというわけなのです。
昨日取り上げた7か条の上から目線で有名となった福井県の池田町という町にしても、消滅可能性都市という待ったなしの過疎地に指定されている地域なのです。
そうしたことで、そこに住めば歓迎されるのかと思いきや、ところが、その住民たちの多くは都会から来る人間を疑いの目で見ているので、まったくの的外れだったというわけです。
結局、人を受け入れるにあたって、役場の担当者と住民たちとの意思の疎通自体も不十分なことで、嫌々ながら受け入れている状態となっているからです。
こういう中途半端な自治体が住民同士の諍いや軋轢を生む最たるもの、田舎暮らしは、こうしてはじめから主従関係が出来上がっているので、都会から移住する人間は圧倒的に不利な状況に追い込まれてしまうのです。
受け入れ側と移住側との思惑がまったく噛み合っていない現実、これではトラブルだらけとなるのは当たり前のことです。
もはや今となっては、田舎を性善説任せにしてはいけないということ、田舎の住民招致は過疎化のくい止めと税収目当て、単純労働の斡旋が主要目的なのです。
当初は、マスコミによる田舎のユートピア報道に触発されたことで、若者からリタイア組そしてスローライフ志向の方や、はたまた都会に嫌気がさしたという逃避型の人たちまでもが田舎に活路を見いだしたのです。
しかし、実際の田舎はそんな甘いものではなかったのでした。
このスタンスは、どの田舎も似たり寄ったりの状況です。
こうなると、さすがのマスコミも田舎礼賛報道とは行かなくなってきてしまったのでした。
マスコミに触発されて田舎を性善説で見てはならないのです。
都会人の理想は都会の喧騒を捨て田舎の自然の中で自由な生活を夢見るという人が多いのですが、しかし、田舎に理想を求めるのは自分勝手な話となってしまうのです。
私は他の著書でも口酸っぱく警鐘を鳴らしてきましたが、田舎でフリーな生活は無理なのです。
田舎に行くほど干渉だらけなので自由は束縛されるからです。
結局、田舎の実態は都会人からすれば判然としないものだらけなので、性善説はすべてにおいてそぐわないのです。
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