地方創生のばら撒きの体質
国の主導する予算の配分ともなると、中身が見えないことで、とかくばら撒きと揶揄されるケースが非常に多くなるのです。
その典型が海外で繰り広げられる発展途上国への援助に対するODAなどの疑惑だらけのばら撒きなのです。
こうした国のばら撒き体質は、国民には見え辛い地方創生でも発揮されてきたのです。
ここからは格式ばった言葉は止め、地方創生の矛盾やまやかし部分の本音を雑学タッチでダイレクトに述べてまいります。
ばら撒きも利権の構図
地方創生の国の金のばら撒きとは、相変らずの国のノー天気ぶりを顕著に表せたと言えるものなのです。
こうしたプロジェクトは、地域の特性も考慮せずに全国の市町村に一律に行われるので、まったくの丸投げと言われてしまうからです。
そうなると、地方からすれば取り敢えず貰えるものはもらっておこうとなるので、いい加減な企画案を提示しての予算の分捕り合いとなるのです。
地方は人口の減少で困り果てていることは事実のことですが、しかし、地方の中にはお金を貰ったところで、これと言った策を持ち合わせていないというケースも非常に多いのです。
明確なビジョンがなければ絵物語になってしまうことは当然のことですよね。
これでは、そのお金を活かすことが出来ないので、無駄に消費されるということになってしまうわけです。
加えてその裏では、地方には地域活性化を阻害する特有の人間関係が存在するので、利権の奪い合いが繰り広げられているのです。
ばら撒き丸投げで公平を謡う偽善
ばら撒きや丸投げはそもそもいい加減なものなのですが、そのいい加減を行使する為には暗黙の了承というものがあって、それこそが公平の原則なのです。
それは即ち公平にばら撒いて丸投げするということなので、金持だろうが貧乏人だろが分け隔てなく金を恵んでやるというわけです。
これでお判りの通り、ばら撒きというものはお金が有り余る層にもまんべんなくばら撒かれるので、投資対効果がまったくないところに税金が無駄に投下されてしまうわけで国民の貴重な税金をつぎ込む観点からしても非効率極まりないものなのです。
特に地方創生の場合、各市町村の実態が千差万別の状況と成り果てており、効率的な投入方法が理解に及ばないことで、ばら撒きや丸投げが完全に蔓延化しているのです。
こうした悪しき循環が繰り広げられているのが地方創生の実態なのです。
コンパクトシティ構想の失敗
地方自治体の無策は何度も言う通り、コンパクトシティ構想の失敗を見れば明白なことなのです。
地方の主要駅のロータリーやコンコースは綺麗に整備されて見違えるようになりましたが、クルマ社会の煽りを受けてしまい、そこにいるのは老人ばかりなのです。
そして田舎の隅々の道路は舗装されたが、結果は使用する人は殆どなかった。
更には多くの無用な箱物を作り上げて街を空洞化させただけで終わったのです。
加えてリゾート開発なども燦々たる終焉を迎え、結果、地方の再生どころか、都心への一極集中を加速させてしまったのです。
現代の地方創生の流れもそれと大して変わりはないということに尽きるのです。
今の地方創生事業は税金の無駄使いと言われてしまう根拠、それはテコ入れしたところで再生不可能な過疎地に多額の税金をつぎ込んで延命処置を講じているだけだからです。
それでは、この話は明日も続きます。
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